第二のサイクルでは、より抽象的な段階になる。
Nihosuは、未来や過去にとらわれず、現在に集中することによって本来の自分であり続けること。それまで何をしてきたか、あるいはこれからどうするべきかではなく、今の自分の声を聞いてそれを実行すること。
Semoeとは、意識的な統合ともいえる。Nihosuであること、すなわち常に自分であり続けることはこの社会の中ではむずかしい。週末に友人と会う約束をしていたけれど、読み始めた本がおもしろすぎて、ずっと本を読んでいたくなったとする。そんなとき、友人の約束を断ることは、一般的には失礼と捉えられる。あるいは、毎朝ウォーキングをしようと決めたのに、朝起きたら寒くて家から出たくなくなった。今の自分に正直であろうとすると、ウォーキングをしたいと思った自分との約束を破ることになり、それは怠惰と捉えられる。さて、今本を読んでいたいということは、友人と約束をした自分の感覚は間違っていたのだろうか。ウォーキングをしようと考えた自分の気持ちは嘘だったのだろうか。地上においては、どちらかが正しくてどちらかが間違っているように見える。「わたし」はひとりで、両方を同時に考えられないからだ。しかし、実際のところ、おそらく誰もが経験したことがあるように、ヒトは集合体である。あなたはひとりではなく、チームなのだ。Semoeでは、友人と会いたい自分と本を読みたい自分は矛盾なく同時に存在しうることを受け入れ、どちらがより本質的かを感じ取る段階である。外が寒いから出たくないという声が、今大きく聞こえていても、あなたの奥には今も「ウォーキングをしたい」という思いがあるかもしれない。実際に外に出て歩いているうちにぽかぽかとからだがあたたまってきて、楽しめるかもしれない。いちばん声の大きい意識が、本当のあなたの望みだとは限らない。チームのひとりひとりの声を拾い上げようとすること。それによってチーム全体の幸福度に貢献すること。それがSemoeである。
Ehohuは、一見何かが起きているようには感じられないかもしれない。自分自身とつながりを深めることで、変化する勇気を育てる段階である。これは、NihosuとSemoeの奥で起きている。
Woyatuは、大事なものを守るためにチームが協力する段階である。NihosuとSemoeによって、社会との摩擦を体験しながら自分の本質を見据えることをしてきた。ここまではどちらかというと外に対して妥協点を探すことが多かったと思うが、ここで自分のいちばん大切なものを実際に大切にしようと決める。職場を変えることかもしれないし、心地よくない人間関係から離れることかもしれない。ここは、あなたであることのはじまりでもある。
Wekanとは、Woyatuの結果あなたが新しい体験を通じて新たな知見を手に入れ、次の段階に進むことだ。「kan」は、目に見える力を手に入れることであり、失うことでもある。タロットカードの死神は、死と再生を意味する。何かが終わるということは、何かがはじまるということだ。以前所属していたコミュニティでの発言権やつながりをあなたは失うかもしれない。しかし、それは新しいコミュニティを作り始め、新たな力を手にしていることと同義かもしれない。
NihosuとSemoeを経て、WoyatuとWekanに至るために必要な自分自身へつながる力を育てる。そして、それを実行して手にする。それが第二のサイクルである。