ウェイク語は、ヒトの意識の枠を外すためのツールのひとつである。
ウェイク語は、どこかで使われている言語ではない。いわゆる「高次元」と呼ばれるところでは、コミュニケーションは言語を介してではなく、テレパシーのように直接的な意識のやりとりによって行われる。だから、彼ら(ここではあえて「わたしたち」ではなく「彼ら」と呼ぶ)がウェイク語を日常的に使うことはない。
また、地球上においてもウェイク語が使われたことはない。ウェイク語は、非常にあいまいで表現の限定された言語であり、地球での生活で使うにはあまりにも不便だからだ。
これまでヒトは、数千年にも渡り、真理を求め続けてきた。それらは時に数で、時に絵画や彫刻のような芸術で、あるいはシンボルなどによって表現された。近年では特に、言語によって記述されることが多い。
しかし、言葉はむずかしい。同じ文章を聞いても、ひとりひとりの背景が異なることによって、違う解釈に至る場合がある。たとえば、「愛」という単語から、ある人は人類愛のような他者への思いやりを思い浮かべるかもしれないし、またある人は嫉妬や束縛など一体感を求め合う関係性を思い浮かべるかもしれない。「愛はすべてである」という言葉から何を受け取るかは、千差万別である。
そこで、ウェイク語である。
ウェイク語は、日常的に使われる言語ではないため、それぞれの単語に対する先入観やイメージがない。また、使われていないということは、変化しないということでもある。学校で習わなければ古語が理解できないように、生きている言語は必ず変化する。
ひとつだけ強調しておきたいのは、ウェイク語を理解しなければ意識の枠が外れないわけではないということである。好きな食べものや好きな本がひとりひとり違うように、それぞれに合うツールが存在している。音楽かもしれないし体感かもしれないし、もしかしたら一般の言語で書かれた本かもしれない。
すでに存在している方法で充分理解できているなら、あなたにウェイク語は必要ない。もし、わからないと感じるなら、もしかしたらウェイク語に触れることはあなたの助けになるかもしれない。