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Rosikotiseの続き2

 Rosikotiseの「Rosi」とは、それまで見えなかったものを現実化するときに削ぎ落とされるものやかたちが変わるものを意味する。

 たとえば、すごく楽しい時間を1枚の写真に撮ろうとするときに、そのときの楽しさすべてを写しとることはできない。声や雰囲気は平面には残せず、すべての表情も残らない。しかし、その写真を見ることでそのときの楽しさにつながることができる。自分の撮った写真に自分が写っていなくても、他の人が撮った写真には自分もその場にいることが残されているかもしれない。そうして、断片を集めて眺めたときに、かつての体験を思い起こすことができる。それが「Ko」だ。

 楽しかったと当時を懐かしく思い出すと同時に、「あの頃はよかった」という寂しさや虚しさに襲われるかもしれない。これは「Tise」に当たる。Koにつながることで、しあわせな気持ちになることもできるが、同時にそれが今ないことにも気づく。楽しかった過去の記憶は両方を矛盾なく含む。このときに、しあわせと寂しさのどちらをより感じるかが、Rosikotiseがあなたにとってどういう意味を持つかの分かれ目となる。

 あなたが大いなる流れ、すなわちAlumonisuを体現しているならば、現在も違うしあわせの中にいるだろう。その場合、当時の記憶はよりしあわせに近いものとなる。もし、今のあなたがAlumonisuを感じられていないのならば、心のどこかに不満を抱えている可能性が高い。そうならば、過去のしあわせあふれる記憶はより寂しさや喪失感を味わせるだろう。

 Rosikotiseは、それ自体に善悪や優劣があるわけではない。凶器として使われたからといって、包丁に善悪がないのと同じである。善や悪を生み出すのは、出来事ではなく、それを観察するヒトの心である。